平沼孝啓 / 建築家 平沼孝啓建築研究所主宰

南堀江/大阪

大阪とニューヨークを拠点に世界中のさまざまな建築を手掛けながら、日本を代表する建築家や美術評論家たちと共に、後進に向けた建築と芸術による社会環境の発展を目指すノンプロフィット・AAF(Art & Architect Festa)を率いる建築家の平沼孝啓さん。大阪・南堀江公園に面したオフィスでは、USMハラーのユニットを長年使用されています。オフィスとUSMハラー、そして、これからの建築に対する想いをお聞きしました。

どうしてここ(大阪)にオフィスを構えられたのですか?


留学から帰国した99年ごろ。ロングライフデザインを提唱されたデザイナーの先輩、ナガオカケンメイさんが、リユース・リサイクルストア(D&DEPARTMENT PROJECT)を大阪に展開される際に、コンバージョンやリノベーションする建物を探すのに付き合ったことがきっかけです。いわば市中の名建築というよりも、地域の方たちにとって記憶や名残のあるような建物を、探検するように街歩きを繰り返しながら、2年程かけてようやく見つけたのがこの建物です。これだけのスパン(柱間)がRC造でとび、階高のある空間を実現した建物なので、当時としては高級とされたことから残されたのでしょう。この現地調査に付き合ったのですから、当然のように、そのまま責任をもって設計するようにとの指令でリノベーションし、そのままだんだんと同居するようになりました(笑)。いま思えば、知己を深めていくと敬意が育まれてくるように、どこにでもある普遍的で自然な人の関係から、結果として、その場がシンクタンクのようになっていきました。

オフィスの内装や建物のコンセプトについて教えてください。


クライアントで30代半ばだったナガオカさんは、当時、僕に夜を徹して語られるくらい、日本のデザインで社会の価値を変えようと、たくさんの夢や希望を持っていましたが、お金がない、予算なんてありません(笑)。また、当時インテリアデザインの主流だった造作や天然素材の材料調達をしたデザインなんて、できる余地はありません。約60年経過した建物に残されたものは、構造体とコンクリート・ジャンカ(不良部分)の出たボロボロの壁、古びた木製のフロアに錆ついたシャッター、他には何もない。低予算のため建材の調達ができず、何もないのですから、建築を創造する時のように周辺の環境から得ようと、街を歩き回ります。地域に店を出すのなら地域の資材を得ようとすると、街の応援、利用者を生みます。また欲を言えば材料調達をしたかったのですが、目的はその場の歴史や街区の整備主旨、数百年前から町民の暮らしと共に培われた街区計画などから、自然の太陽や風の動きを得ようとします。


1ブロック南側に道頓堀川が流れ、その河川の歴史を知るうちに、出雲の国や大和の山から木材が舟で運ばれ、戦前には江戸の建物(木造)数より多く建ち並んだ「大大阪時代」の都市の建築を支えた、木材の乾燥保管庫としたエリアだったことを知ります。つまり木材を川で流し荷揚げした木材倉庫が建ち並び、現在のミナミやキタという街を支えてきたエリアであったことを学びます。当然、プレカット工場は存在しませんから、建築の構造材用に材料カットの手仕事を終えると「破材」が出てその余り材をつかって成形した椅子や建築部材、家具屋や欄間屋、そしてそれを取り付ける金物屋まで建ち並びます。何人かの手に渡りましたが、この建物が、この街に残され、職人の寄宿舎を備えた家具製作の工場であったことを知ります。(現在の立花通(通称:オレンジストリート)周辺)


建設費は大まかに材料費と工費によって施工費が構成され「材工(費)」と呼びますが、この材費の捻出ができないのであれば、工費つまり人件費だけでつくれるようなことはないかと考えていくようになりました。また当時のナガオカさんの言葉を借りれば、「空間の抜け」と抽象表現するべきでしょうか。前面の公園から導かれる「空間の質」がよかった。もちろん歩きまわるうちに、材はできるだけ利用者となる周辺の方に、金物やガラス、塗材など資材をご厚意でいただきながら(笑)。工費だけで、コンクリートの打設時型枠あとの凸凹をグラインダーで削り、構造体の表層を0.2ミリ~0.3ミリ、エアーサンダや紙ヤスリで削ります。この時点で使用された断熱材も真空乾燥させ圧縮率を高め、床材もできるだけ残しながら、この店のコンセプト通り、リペアしていくように床面に水平ブレースで耐震設計を施すと共に、いわゆる削りだす修復の設計をしていきました。つまり建てられた当時の空間を残しながら最新のテクノロジーを利用した構法を用いて、完成当時よりも美しく、あと50年、何気ない地域の日常にも記憶を残すような状態をつくりたかった。恐らくこの手法が講じて近現代の内装にも見えますが、窓の型板ガラスもスチール枠も天井の木毛版も、建築・内装は竣工した80年前、当時のままですね。D&DEPARTMENTが2017年にProjectとして15年間の役割を終え退去された後も、変わりなく建物を継いでいます。

それでも、とても片づけられていてきれいなオフィスですよね。


そうですかぁ?当時のまま、ほとんど変わりなくて、ですね(笑)。つくった時に「懐かしさのような新しさ」なんて言われてた気もしますが、もう日常に慣れ親しんだままで、きれいかどうかもわかりません。でも建築は、壁や柱、力学(構造)の美しさとその地域の空気感や場所性を空間で示したいと思うものです。つまり有効に建築空間がもつ個性を利用したいと思うと、角部や壁面に添い家具を配したくない。その場で家具の配列を計画すると、人の行動をどの程度集中させ促すことができるのか、それにはある程度の重量感とスムーズな機能性を有した家具、質量と配置の関係性から、ユニットシステムでメカニズムを設計でフォメーションでき、表裏がなく収納力を兼ね備えた家具があって叶えられてるのでしょう!(笑)

最初にUSMハラーを使うきっかけになったことは何ですか?


ヨーロッパでデザインに社会が向いていた90年代にロンドンへ留学していました。テレンス・コンラン卿が展開したTHE CONRAN SHOPやパリのcoletteなど、現在のMoMA Design Storeのようないわゆるセレクト・ストアでUSMハラーを知って、この可変するモジュール性を学びました。もちろん当時でも学生が買えるようなものではありませんでしたが、20代後半の帰国時に倉庫のような場所を自宅にする際、USEDのハラーで寝食エリアを分けながらクローゼットを兼ねる装置としての配列を試みました。そこから引越し、可変するタイミングを重ねて、だんだんと、数年毎に20年くらい掛けて、少しずつ部材を足していきました。現在のオフィスでも自宅でも使用しているハラーは、そうして増えていったユニットです。

最近、4階のオフィスへ上がる階段の壁面に沿ってハラーのシェルフを設置されましたが、これはどうして思いついたのですか?


2020年の春頃からでしょうか。日本でも、新型コロナウィルスが猛威を振るい始めたころ、ヨーロッパでは中国の貿易が盛んであったイタリアから大きな影響を受けていました。現地のイタリア人の友人と電話で話したとき、「ウィルスが靴の裏に付いて家の中に入る可能性があるようだから、日本の住宅のように土足で家に入ることをやめた」と伝えられたことがきっかけです。それを聞き、このオフィスに入るときも土足をやめてみようと思い、20年来知己を深めたインターオフィスの濱本和子さんに、当時は小さな下足箱を設置する相談をしたのです(笑)。

コロナがきっかけだったんですね。


コロナは悪いことばかりではありませんね、それまでの価値で気づかなかったことや創造力を働かせてくれます。始まりは一連の小ぶりな下足箱を相談したのですが、恐らく彼女は国内で一番、特殊なハラーシステムの設計を培われた日本人じゃないかな、その濱本さんとの会話です。またこの時期は自粛期間。20代の頃の荒行の笑い話から設計者二人で話すうちに、盛り上がっていくのですね(笑)。小さな設置スペースにも解像度が上がってきて、もう少し、いやここまでは…と、どんどん盛り上がり、広がっていきました(笑)。海外に往来できなかった分、じっくり取り組む時間があったことも良かったかもしれませんし、仕組みを知る二人で話すとやったことのないことにも挑戦していきたくなるものです。でも築80年も経つ建物ですから、ゆがみや垂れなど精度がよくないし、温熱変化から計測するたび生き物のように違ってくる。階段の蹴上や蹴込の角度が微妙に違っていて、アジャスターの足元を微細に変えながら、そこに工業精度の高いハラーモジュールをどう収めるか考えるのは、かなり面白かった。

窓の箇所もうまく配慮されていますね?


窓は朝がくれば明かりを通します。小さな階段室だからこそ窓ガラスにガラスユニットをレイアで重ねて活かす工夫を探しました。もうこうなれば夢中ですから、多くの上履きを取り寄せサイズも綿密にスタディしました。コートラックがあるのも、コロナの感染拡大が始まった当初、コートにもウィルスがつくような噂があったので、ここでコートを脱いでもらうように設置したのですが、このオフィスに入る道程に上着が脱げる発見も、今ではオフィスの温冷環境を整える設計の実践として、とても役立っています。

USMハラーについて、どのような印象を持たれていますか?


サステナブルであることです。フレームは組み合わせれば力学上の耐力を担うので、物理学上古くても材が朽ち果てるまで10世紀は使えそうです(笑)。また医者や弁護士なら「あそこが痛い」、「あの人と揉めた」と、患者や依頼者から過去を聞きます。でも設計者は、夢や希望ばかり未来を語るクライアントの方ばかりと毎日話すのも職業です。何とかしてあげたい想いばかりで工夫を求められる苦労も多い分、多様な未来予想図を聞くと皆さん前向きで、とにかく楽しく話されますね。クライアントの未来予想をまっすぐ手順を施し設計するように建築を生き方にしていると、僕の場合、不動産など自分の所有意欲は生まれません。そう思うと、資産といえば、所有物は移動可能なUSMハラーだけかもしれません(笑)。コロナもそうですが、人は時代や年齢、成長と共に人や環境で変わる生き物です。そうした変化に合わせて分解・組替えできるというのは、生活や活動も人生さえもゆるやかに支えてくれる。

建築家から見たこれからのUSMハラーとは?


近年は、建物の重量設計をしたり、耐用利用年数の設計をしたり、どれくらいの使用頻度でどの程度の時間残していくか考えて建築をどうつくるのか、ヨーロッパではエネルギー効率を最も重視していて、そうしたことを分かった上で設計していくというのが、今後さらに主流になっていくでしょう。これからはつまり、人間重視の建築から地球のことを想い慕う「パラダイムシフト」の時代です。ただ実際の人の日常生活において、この期限を適用するには負担を強いられます。「未来がどうなるかなんてわからない」と思って生きていたいし、「小さな可能性を曖昧に残したい」と思っているのが人間でしょう。その暮らしの中で、家電や家具類のプロダクトの購入の際にも、自分がどれくらいの期間使うか決めることができれば、扱いやすいし購入しやすくもなりますが、決める時期が来ると、とりあえずの弱腰に陥り、その時に負担の少ない安価な商品に流れる心情もよく理解できる。


ただそのように決めると、生活環境が変わったり、破れたり故障すれば廃棄です。これだとゴミがまた生まれてしまう。ベッドや椅子、冷蔵庫やエアコンは、1つで形態機能が完結していて増幅したりするものではありません。それに対して、USMハラーの場合主用途性がシステム家具ですから、その時々に応じた組み方ができて、暮らしや活動に変化があれば組み替えができる。つまり決めなくてよい(笑)。特に僕のような自分の事はどうだってよく、決めたがらない人にとっては、物に決められた生活習慣を送らないで人生の限りを決めなくてよい。そういうものは長く使ってゆける。オプションのパーツも時代に合わせて増えていき、最初は簡易で小さいユニットから始めても、どんどん必要に合わせて増やし変えていくことができる。60年代にフリッツ・ハラーさんがシックスホールのボールコネクターを完成させ、それを現代に流通させ叶えられていることは、素晴らしいことだし、日常を豊かにしてくれます。

最後に言える範囲で、現在、夢中になり取り組まれているプロジェクトを教えてもらえますか?


実験的なことをやっていることが多いですから、夢中のプロジェクトばかりです(笑)。それはローマ帝政期のコロッセオのように物を残して人に継がれなかった技術でつくられた時代の遺作もよいですが、無難な成功事例建築をつくるよりも、まだ人類がやっていない先があれば、たとえ失敗しても挑戦しておくと記憶にも記録に残ります。次に建築を目指す世代へその事例やプロセスを残したい。自分が完成させなくても可能性ある余地を継ぎたいのです。人の生きた証として、経済やお金を残す目的でないのであれば、次の世代にこの時代に生きたプロセスを継いでいきたい。どこかで上の世代がそうしてくれると、次の世代もまた継いでいくでしょう。


本来、日本の建築技術の発展には、式年遷宮という神事があって、伊勢は20年に一度、出雲は60年に一度、建て替える文化が今も続いています。伊勢は、宇治橋も含めて各地域の神社へ材をリサイクル・リユースして、また自分たちの技術を1㍉だけ高めるために、次の技術の挑戦をし、その材料さえも周囲で育み備えます。20年に1回建て替えるので、20歳で経験した人は40歳になり、40歳で経験した人は60歳になり、20年周期で技術を受け継ぎます。これまで千数百年に渡ってそうした技術の継承が繰り返されてきたおかげで、日本の建築は世界有数のテクノロジーを得ることができたと世界から称されるようになりましたね。それは地震や津波、台風という自然災害がもたらした対策立国として培われた特徴かもしれませんし、人の命を守る高い防災事例を残せたためかもしれません。以前は、スクラップ&ビルドと揶揄され非難された時代もありましたが、現在は、リユース・リサイクル・サステナビリティが提唱される時代に差し掛かりました。これをこの先、1世紀進めようとすると、後進への継承が重要で、それがなされないと持続はできません。


技術の進歩の基点は、宗教の発達と戦争、エネルギーの発見と革命にありましたが、平和を掲げた時代の先の文明を予感させる現代の基点は、オリンピックと万博の開催となるのでしょう。現在、生まれ故郷の大阪で、1970年から継がれた2025年のプロジェクトに携わりますが、前万博では太陽の塔を囲むようにお祭り広場が、イギリスの産業革命後の鉄の大量生産・大型技術の発展に重なり、スーパーフレームを生み、国内でも幕張メッセや東京国際フォーラムなど世界中の建築をメガストラクチャとして叶える、この先の技術が示されました。東京オリンピックでは建築界の力不足で先進性のある技術を何も残せなかった分、今回は、日本の伝統建築技術を継いだ木造万博です。出雲の高層社殿から学ぶように、奈良の世界最大級の木造建築大仏殿や、京都の醍醐寺五重塔に残されたこの国の技術を継いで、日本の国土の約70%、2/3の森を守り循環させることも含んで、この万博後に世界の中大規模木造を促進する機会の軸に、日本がなればよいように開催地大阪で挑んでみます。「森の未来のために建築ができること」をテーマにですね。そしてもし、次の万博があるとしたら50年後くらいになるでしょう。その時代に僕たちはもういません。2025年の万博を知る今の若者たち、50年後に僕たちのように挑戦する者たちが、『あの時の万博、木造建築の博覧会のようにすごかったね』と言って、希望や期待を掛け、励みになるような記憶と記録だけは必ず残しておきたいと、この取り組みを信じています。

平沼さん、取材のご協力をありがとうございました。


 


平沼孝啓建築研究所:http://www.khaa.jp/


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写真: 永田忠彦 / Quarter Photography